自分探しの旅は無駄ではないと思う

人生論

こんにちは!トモローです。

今日は旅人の自分探しについて

よく旅の理由に「自分探しの旅です」って答えが返ってくることがある。
海外に出て、自分はどんな人間で、何が好きで、何に怒ったりして、何が得意なのかを探す。

自分の一生を「これだ!」って賭けられる何かが見つかるかもしれない、という気持ちで旅をしている人は多いだろう。

そんなバックパッカーの自分探しについて、「旅に出たところで自分は探せない」「海外に自分探しの旅に出るのは無意味だ」といった、意見もよく聞く。

僕は、海外に出て自分探しをするのは有りだと思うし、無意味ではないと思っている

今日はそのことについて書きたいと思う。

そもそも、自分って何?

自分=「自我」とは何、誰?

例えば、

僕の名前は○○です。
僕は31歳です。
僕は身長が170センチ、体重62キロです。

日本には約1億2千万人の人がいる。

もしかしたら全くの赤の他人で同じ名前、同じ年齢、同じ身長と体重の人がいるかもしれない。

では、自分とその人は何が違うのか?生年月日?出身地?

もしそれも一緒だったら?

まあ、ここまで言ったら、「いやいや両親が違うやんけ」とか言われそうですね。

もちろん、そこまで追求しなくても、たとえ名前、年齢、身長体重、生年月日、出身地が同じ人間がいたしても、僕たちはその二人に人間が全く別人だということを認識することはできます。

でも、じゃあ、自分ってどうやったら自分として定義できるのか?

僕は、こう思います。

自分以外の誰かが存在して、比べることで初めて定義できる

もしこの世に自分一人しかいなかったら、自分は何者なのかどうやって認識できるのでしょうか?

例えば、水泳選手の北島康介選手。誰もが知っている、超一流のスイマー。

でも、もしこの世に北島康介選手一人しか存在しなかったら、彼が泳ぎがうまいとか早いとかいう定義ができない。

もっと言うと、身長は高い方なのか、低い方なのか、体重はどうなのか。

もっとアイデンティティに迫って言うと、彼の性格は怒りやすいのか、それとも優しい人間なのか。

そういったもの全て判断できない。

この状態で、どうやって北島康介選手は自分とはどんな人間なのかって説明できるのだろうか?

この世に、北島康介選手以外の人間が存在して初めて、彼という人間を説明できるのだと思う。

光だって、闇が存在して初めて光を認識できる。

平和は争いがあって初めて認識ができる。

この世は全て二項対立でしか存在しえないのだと思う。

言葉で表現するのはとても難しいけど、もし「それしか存在しない」なら、なぜ「それ」を「それ」だと認識、簡単にいうと説明できるのか?

それは「それ以外の存在」があって、それと比べることによって、初めて認識、説明できると僕は思う。

自分が存在できるのは、自分以外の存在があるから。

自分を定義するということは、自分以外の存在と自分を比べるという行為なのだ。

 

枠を大きく考える

僕たちは他人が存在して、その人たちと比べることで、自分は身長が高いとか低いとか、歌が上手いとか下手だとか、何が得意なのか、何ができないのか、ということがわかるようになる。

ただ、それだけではまだ正確な自分とは言えない。

例えば、自分が身長180センチとして、「身長が高い」と思っていたとしても、

もしドイツに行って見たら、あれ?自分くらいの身長の人なんて五万といるぞって、気づくはずです。

例えば、自分が行ってた学校で、成績がいつも上位であれば、「自分は賢い」って思うかもしれない。

でも、大学に進学してみたら、自分より賢い人なんて五万といることに気づくかもしれない。

スポーツでも、地区大会で優勝して浮かれていたら、全国大会に出たら自分なんてまだまだだって気づくかもしれない。

これは、比べる枠が変わることで、定義が変わるということです。

要は、井の中の蛙大海を知らずってやつですよね。

比べる枠を変えることで、もっと正確に自分というものを知ることができる。

そう考えると、僕たちは日本人であると同時に、アジア人であり、同時に地球人なのだ。

日本人の中で身長が低かったとしても、アジア人の中では上位10%に入れるかもしれない。しかし、それを地球人の枠に広げて比べてみると、やはり下位30%に入ってしまうかもしれない。

僕たちは日本人として生まれ、日本で生活して、そして死んでいく、その中で他の日本人と自分を比べて、いくらか自分を定義することができるかもしれない。

でも、それは不完全である。

海外に出て初めて、自分はアジア人で、黄色人種で、日本語を話して、儒学、仏教の教えが教育に浸透していて、、、こういったことを知ることができる。

(もちろん今の時代、テレビ、ネット、本でそんなことはわかるのだけど、実際に自分の身で体験、経験して初めて理解できることがある)

海外に行って、他の文化、風習と触れるからこそ、僕達はもっとより正確に自分の存在を定義することができる。

海外を旅すること、バックパッカーというのは、自分を比べる枠を広げる行為であり、これは日本に生きて他の世界を見ない人よりも、よっぽど自分とはどういう人間なのか理解できるのではないか、と僕は思う。

僕も、海外を見たからこそ、日本という国がどれだけ素晴らしいか、どれだけ恵まれた環境で生活できているのか、逆にどれだけ無駄に大量生産、消費してゴミを排出しているのか、長時間労働をして自分の人生という時間を消費してしまっているのか、そういった色んなことを学ぶことができた。

以下は、最近読んだジムロジャーズの本で見つけた内容

ラドヤード・キプリングという、1907年にノーベル文学賞を受賞したイギリスの詩人がいる。

彼の「The England Flag」という詩に、こんな一節がある。

What should they know of England who only England know?

「イギリスのことしか知らない人が、イギリスの何を知っているというのだ?」

(イギリス以外の国に行ったことがある人は、行ったことがない人よりもはるかにイギリスのことを知っている)

出典:ジム・ロジャーズ著 お金の流れで読む日本と世界の未来

僕もまさにその通りだと思う。

自分の世界をどんどん広げていくことで、結局自分を知ることになる。

一見、行為だけを見ると外に出ているだけのように見えるが、結局はそれが自分への帰結なのである。

5000年の歴史があるユダヤ人も「レッフ・レハー(脱却と回帰)」が重要だと唱えている。

(自分の殻から)脱却することで、離れる(出る)という行為が、最後は(自分というものへの)回帰に繋がる。

 

だから、世間の目は気にせずに若者は目一杯海外を旅すればいいと思う。

そうして、広げた視野を持って自分の国に帰れば、今まで見ていた世界も変わると思う。