こんにちは!トモです。
僕は別に英語が流暢に話せるわけではないのですが、今日は英語について書かせていただきます。
「英語が話せない」ってワード、嫌になる程聞いたことがあります。
が、本当は「英語が話せない」わけではなく「英語が話せない(と思ってる)」のが正しいのだと思います。
「話せる」「話せない」のラインは?
英語が話せると、英語が話せない、その線引きって一体どこなんだろう?
1500語ほど単語を知っていたら話せるのか?
TOEICで満点だと話せるのか?
外国の子供は別に単語をそれほど知っていなくても、TOEICで満点でなくても英語を話せる。
話せることと、話せないことって明確な線引きはないんだと思います。
結局は、自分や周りが「話せる」「話せない」とレッテルを貼ってるだけ、そんな風に僕は考えています。
昔、外国人で「僕は日本語が話せます」という人がいたので、どれくらい話せますか?と尋ねたところ「SUSHI !」「SASHIMI !」「SAMURAI !」って知ってる単語を満面の笑みで叫ばれたことがあります。笑
そう、それでも確かに日本語を話している(口にしている)。
それを聞いた僕は、彼が面白い人間だと思って、次に会った時もよく話す間柄になった。
たった数語の単語を知っているだけでも「話せる」という人もいれば、相当高度な文法までマスターしているのにも関わらず「話せない」という人もいる。
非常に多くの日本人が「英語が話せない(と思ってる)」状態に陥っているのはなぜなのか。
なぜなのか?僕は、それが日本の英語教育にあると思っています。
正解だけを求める日本式教育
日本の教育は特にそうですが、1+1=?のように答えを求める教育方法。
解き方を覚えて、答えを導き出す。
もちろん、それで問題は解決しますが、あまりにもこの教育をしすぎると何がいけないか。
それは、『世の中の全ての問題には答えがあって、解き方がある。それを知っていれば回答が導き出せて、知らなければ導き出せない。そして何よりも誤った回答はすなわち落第を意味する』と心から洗脳されてしまうということ。
1つ先にこの世の真理を伝えておくと(何様だ笑)世の中には答えのない問題が山積みです!
全ての事象に答えがあるのなら、なぜ世界平和、貧困、経済格差、環境問題、などはいまだに解決しないのか。
それは、あらゆるものが複雑に絡みすぎていて、最適解はどこかにあるのだろうけど、それはあくまで落とし所であって、問題を100%解決する解決解(なんと言ったらいいのだろうか?)はない、のが本当のところなのだと思う。
社会人になって、たくさんの後輩と出会ってきましたが、「習っていません」「わかりません」「教えられていません」って返答があまりにも多いことに驚きました。
日本の教育で、習ったことしかできないと洗脳されてしまっているように思います。
また、日本の教育、テスト方式だと、回答を誤ると点数が低くなり、点数が低いと頭が悪いとみなされて、いい学校にも入れなくなる。留年、浪人はお金や時間が人よりも多くかかるし、社会的落伍者的な見られ方もされかねない。
それを避けるためには、なんとしてもテストで間違ってはいけない!ってここでも洗脳されている。
この、答えが必ずある、そして間違いは悪という2つの日本式教育の弊害によって英語が話せないと思い込んでしまうのだと思う。
英語は生き物で答えはない
言語は生き物だと僕は思っています。
どういうことかというと、時代によって進化するし、変容するもの。
生まれた時からずっと形を変えない物ではなく、ずっと変化し続けるもの。
日本語でもそう。例えば「全然」という言葉を使う時、普通は後に「〜ない」と否定語がきた。
しかし今では「全然大丈夫です」とか、本来であれば間違った使われ方が浸透して、意味が伝わるようになった。「全然」という言葉が絶対値的な意味合いを持つようになったのです。
他にも、昔にはなかった「ググる」とか「ナウ」とか、新しい言葉が生まれては浸透して、会話で使っても意味が通じるようになっています。
言葉とはそうやって進化、変容していくもの。だから、絶対的な答えはない。
もちろん、大枠としての型になる文法がそう変化することはないでしょう。でも、例えば日本語で「私は食べるんだご飯をたくさん」と言っても大抵意味は通じますよね。
文法的に多少誤っていても意味は通じる。
だから、絶対的な答えはない、というのが僕の考えです。
間違っていい
上と重複しますが、英語は間違っていい。
もし間違ったら死にますか?笑
もちろん、テストで間違うと、点数は低くなってしまいますよ。でも、それを普通の会話においてもそうだって思い込んでる人が多いように思うんです。
正しい文法で、正しい発音で、正しい単語を使わないと、ダメだ!!!!!って。
それで、頭の中で文法を何度も確認したり、単語を確認したり、発音を確認したり、、、。
それじゃ、会話はできないし、いつまで経っても英語を話せるようにはならない。
間違ってもいい。まずこれを前提におかないと英語は上達しないように思う。
日本語を習った外国人の人が、「今日は暑いな日」とかよくいうのを聞きますが、意味は理解できますよね。
これ、「い形容詞」と「な形容詞」というそうです。
暑い日、綺麗な人、寒い場所、高級な魚
↑合ってるかわからないけど!笑
もし外国人が日本語の「てにをは」を正確に使わないといけないなんて考えて話したら、多分一生日本語話せないと思う。
でも、間違っていても意味は通じる。これが一番大事なことだと思う。
言葉は道具であってテストではない
英語に限らず、全ての言語に言えますが、言語というのはあくまでコミュニケーションの道具であって、正確に回答すべきテストではない。
日本で英語を習うときは全て問題の回答として覚えるから、間違ってはいけない、とか、正しく話さないとって洗脳されてしまっているけど、人類の歴史的大きな視点で見ると、言語はあくまで人と人が意思疎通するときに使う便利な道具にすぎない。
そして、人が意思疎通するときに大切なのは、言葉よりも心だと僕は思っています。
相手を理解したいという気持ちがあるか、相手に伝えたいという気持ちがあるか、それがお互いにあるかないか。その方がよっぽど重要な気がします。
だから、「正しさ」よりも「伝える・受け取る」気持ちの方が大切。
そう考えると、英語を使うときに、正しい文法、正しい単語、正しい発音はそこまで気にしなくていいんじゃないかなって思う。
それよりも、心の方がよっぽど大切。
なので、間違いを恐れて足踏みしないで、楽しく使ってみれば、案外コミュニケーションとれたりするものだと思います。
そして、そうやって使っていくうちに自信に繋がって、興味が湧いて、どんどん正しい英語を使えるようになるんじゃないかなって。
※もちろん、今日のお話は、例えば旅行先や街であった外国人と話す、レベルの英語のお話であって、仕事で使うとか、高等テストを受けるって状況はまた別のお話です。
って話でした!