こんにちは!トモです。
実は、今日書く記事ですが、一昨日?くらいに一気に書いてアップロードしたのに、別の記事を書いてアップロードしたらなぜか全部消えてしまった、、、
なんか、僕結構そういうのあるんですよね。
エバーノートにアップした写真500枚くらい消えたり。
僕にとってもはやエバーではなく、ネバーノートでした、、。笑
一所懸命書いた記事が消えるとやっぱりショックだし、なんか気力一気に削がれてしまったのですが。
もう一度書こうと決心しました。
ってことで、前置きは終了し、今日書きたかったのが「衣食住」「豊かさ、幸福」「生きる意味」について。
では、早速。
昔は衣食住こそが生きることそのものだった
衣食住という言葉がありますが、これが何を表してるかって言うと、端的に生きるということを表しているのだと僕は思います。
恒温動物の人間は外部環境によって体調を崩しやすいので、その調節機能としての衣。
生命維持活動として、エネルギー補完としての食。
安寧を得るための住。
最低限、これが確保されていたら人はどこでも生きていける。生きるということの本質は衣食住の充実、そのものなのだと僕は思っています。
狩猟から農耕に変わって
昔、人間が狩猟採集民族だった時代、衣食住は全て自然から自由に賄っていた。
自然も供給するだけの十分な資源を有していた。
この頃の図式としては、
自然→衣食住
しかし、それが農耕時代に変わってから、余剰が生まれて、貨幣が生まれて、国家や軍、法律が生まれて、封建制度がなくなってから労働市場が生まれて、経済が生まれた。
そうするとどうなったか。人々は衣食住を確保するためにお金が必要になり、お金を確保するために仕事をする(しなければならなく)ようになった。つまり、
労働→お金→衣食住
この図式こそが人生そのものとなった。
だから、働かざるもの食うべからずと言う言葉があるのは当然と言えば当然で、食べることを含めて生きるためにはお金が必要で、お金を得るには働く以外に道はない。
ただ、実はこの図式に入ってない人がいる。それが王侯貴族と呼ばれる一部の特権階級。そういった人々は生まれながらにして、この労働→お金の部分をすっぽかして、衣食住を満たすことができた。
産業革命後
ただ、ちょっと様子が変わったのが産業革命の後くらいから、はっきりと資本家と労働者の図式が明確に分かれ、格差が広がると、そこに資本家が入るようになった。※もちろん歴史には様々な転換点があるので、大航海時代の投資家とか、江戸時代の商人など後の財閥ももちろん含まれる。
こういったすでに労働しなくても有り余るお金を手にしている人々は衣食住を満たしてもなお、時間もお金も余っている。そこで、生まれた時間やお金を利用して学問を磨いたり、芸術(絵画や音楽など)など人生に本質的に不要であるが、あれば人生が豊かになるものへ時間やお金をかけられるようになった。
技術革新後
これまで様々な技術革新、テクノロジーの進歩があり、それらが労働市場に生きる人々にもたらしたものが、余剰のお金、時間、そして心の余裕だと思います。
余剰のお金(貯蓄)
これまでは働いて得たお金は全て衣食住に変換され、ほとんどが消失していた。だから働き続けるし、支払い続ける。それが死ぬまで続く。それが人生そのものだった。
しかし、産業革命で大量生産が可能になり、物の価値が圧倒的に下がり、必要なものを揃えてもお金が余る時代になった。
お金とは言い換えれば、労働価値の保管なので、働いて(自分の労働価値を提供して)得たお金(労働価値を保管可能な価値に変換したもの)を全て使い切ることなく、貯められるようになった。
余剰の時間(余暇)
テクノロジーの進化は圧倒的に時間という価値を人々に産んだと思っている。
つまり、昔は例えば洗濯するなら洗濯板と桶を使って手でしていたし、掃除は箒とちりとりを使って、雑巾掛けをして、風呂を沸かすなら薪を割って燃やして温度調節して、暑ければ団扇であおいで。その全てに人的労働=消費時間が必要だった。
それが今では、洗濯機ポチ、掃除機ポチ、ルンバポチ、スイッチポチ、ガスポチ、扇風機ポチである。
家庭内労働からの解放以上に、それによって生まれた余剰時間にははるかな価値があり、それを人々は手にしたのがテクノロジーの進化による最大の恩恵だと思う。
心の余裕
昔は働いてお金を稼いで、衣食住を満たして、家族を養って、そうすれば全ての時間とお金が奪われたので、再び働いて、お金を稼がなければならなかった。つまり、一度労働サイクルに入ってしまったら、死ぬまでそれが続く物だった。
だから、会社に入れば一生同じ場所で働くのが当たり前で。上司は新入社員にきつく言えたのも、どれだけきつく接しても辞めることができないとわかっていたから。
しかし、お金と時間に余裕が生まれ、お金に関しては貯蓄ができるようになった。一年くらい働かなくても生きていけるようになった。
これらは人々の心に余裕をもたらしてくれるようになった。
もし嫌なら会社を辞めてもいいんだ。半年くらいプラっとしてても、働かなくても食っていけるだけのお金はあるんだ。そう思えると、嫌な人間関係を嫌々続けなければならない時代は終わった。
辞めたければ辞める。切りたければ切れる時代になった。
衣食住からの解放
この時点で、少なからず先進国に生きる労働市場の大半の人々も含めて、衣食住がゴールだった人生のフェーズを突破してしまったのだ。つまり、
働く→お金→衣食住+貯蓄+余暇+余裕
働いてお金を稼いで衣食住を満たしても、さらに余るお金と時間と余裕が生まれた。
所有の時代から精神の時代へ
貯蓄と余暇と余裕が生まれて人々がどこに向かったか、それはさらなる欲。
物質的な所有欲。
だから昔の人々は家を買って、車を買って、時計を買って、洋服を買って、良いものを食べて、しかもできるだけ
高価なものを求めた。
家だって車だって時計だって本質的には最低限の機能を備えていればそれで問題ないのに、無駄に高価なものを目指したのは、それが承認欲求につながったからだろう。
働く→お金→衣食住+貯蓄+余暇+余裕=所有欲!
しかし、今時代は所有から非所有に転換しつつある。
家や車や時計は機能を備えていれば最低限で良い、むしろもう必要ないとも考えられてる。
所有しなかったり、最低限シェアで賄ったりで良い、と。
では、今人々は何を考えているのか。
今まではその「考える時間」がなかった。働いてお金を稼ぐ、衣食住を満たして毎日は終わりだった。
それがお金と時間と余裕が生まれることで、何も考えずにそれらをただただ消費していた時代があった。
そして、今、その動きは遅くなり、止まりつつあり。人々は立ち止まって改めてこの貯蓄と余暇と余裕を見つめ直す時代に入っているのではないかと僕は思う。
だから、ミニマリストや断捨離が流行るのも、一旦増えすぎたものを捨てて、本当に必要なものはなんなのかを考え直そうとする動きなんじゃないか。
そして、時間と余裕が生まれたことで、人々は「働くとは何か」「お金とは何か」「生きるとは何か」今まで自分たちが何も考えずに行っていた活動そのもの自体を見つめ直し、問い始めた。そしてその先にある「豊かさ」とか「幸福」を考えるようになった。
働く(って何?)→お金(って何?)→衣食住(って何?)
+貯蓄(どう使う?)+余暇(どう使う?)+余裕(どう使う?)
=何が豊か?何が幸せ?
貯蓄・余暇・余裕が向かうもの
では、こうして生まれた貯蓄や余暇、余裕がどこに向かうのか。
貯蓄
今、個人が投資に興味を持ち始めたのはまさに、この貯蓄をどうするのがベストなのかをようやく考え始めた結果だと思う。
日本で銀行に貯金していたところで意味がないし。人生は長いのに貯蓄額だけで足りるかわからない。
運用して増やす必要がある。そんな風にようやく考えられるようになり、投資が注目されているのだと思う。
余暇
時間こそ命であると考えると、余暇の時間をどう過ごすかというのは、命をどう使うかと同義である。
例えば、僕がもし有り余る財があってもう労働から解放されたとしたら、残りの時間は自分の好奇心を満たすために読書と勉強と旅に全て費やすと思う。笑
多分、長期潮流で考えると、人々の寿命は長くなっているので、できれば健康で長生きしたいと考えるのは当然。なので、余暇の時間を利用して運動を始めたり、健康のために学んだり実践したり、そうした時間の使い方をする人が増えるんじゃないかと思う。
心の余裕
ここが一番重要だと僕は考えていて。
結局人って自分が満たされていないのに、他人を満たすことはできない。
自分に余裕がないのに、他人にかまう余裕などない。
しかし、今、少し自分に余裕ができた人々はようやく顔を上げることができるようになり、周りを見渡すことができるようになった。
世界には、貧困や経済格差、教育格差、環境破壊など解決しないといけない問題がゴロゴロと転がっている。
これらの問題をどう解決できるのか、ようやく目を向けられる余裕ができたことになる。
しかもお金と時間にも少し余裕が生まれているので、小さな活動でも携わることができるようになった。
あとは、人それぞれが貯蓄と余暇と余裕をどう分配して、何に使うのか。
そして最も大切なのは、その結果自分の人生が豊かに、幸福になるのか。
以前は衣食住がゴールだった。そのために生きていた。生きる意味や目的など考える余裕も暇もなく。
しかし今はそのゴールだった衣食住はベースとなり。そのベースの上に自分や周りの幸福こそがゴールというフェーズに入った。
どう考え、どう行動するのか。
って話でした!
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