こんにちは!トモです。
今日紹介する本は「ハーバードの人生が変わる東洋哲学」
正直、2018年に読んだ本の中で一番良かったかも!個人的に。
※この記事は一度2018年に上げたものを再アップしたものです。
僕は老荘思想や四書五経、三国志、史記と中国の古典、歴史書が好きです。
そのほとんどが哲学的であり、人間関係や処世術においてとても深淵な学びをくれるから。
中国という国は4000年前から戦い、争いに明け暮れてきた国。
それは国と国、国内、政治とありとあらゆる規模で。
しかも、人口の量が違う。
日本で将軍になろうと思えば、数千人の長に立てばよい。でも、中国で将軍になろうと思えば数万人、数十万人の長に立たなければならない。
日本の総大将クラスが中国では将軍としてごろごろいる。
そんな人間の渦の中で争い続けてきた中国だからこそ、そういった処世術や人間関係において学べることが多い。
僕がアジア人ということもあって東洋哲学はとても受け入れやすい。
この本も、孔子の礼から始まり、老荘思想、孟子、荀子、そして東洋哲学との比較など、とても個人的に興味のあるポイントを押さえていて、とても面白かった。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学
あらゆる生き物には何らかの性向がある。つまり、物事に決まった反応をする傾向があるということだ。花には太陽の方へ向かって伸びる生来の性向があり、鳥や蝶が鼻を求める傾向を示すように、人間にも性向がある。人間の性向は、他者に感情的に反応することだ。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学 p46
私たちは、自分の感情が絶えず何らかのきっかけによって引き出されているなどとは気づきもしない。しかし、感情は遭遇するものに応じて揺れ動く。楽しい経験をすれば楽しいと感じる。恐ろしい物に出くわせば、当然、怖いと感じる。害のある人間関係は人に絶望感を抱かせ、同僚との口論は人を怒りに駆らせ、友人とのライバル関係は嫉妬心を芽生えさせる。わたしたちはつい、あるきまった感情を他の感情より頻繁に抱いてしまい、その反応はやがてパターン化して習癖になっていく。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学 p46
『性自命出』は、「情」、すなわち、物事に対して感情のままでたらめに反応する段階から、「義」、すなわち、もっと正しい反応ができる段階へと向かう努力をすべきだと論じている。
鍛錬を積んではじめて、ふさわしい反応ができるようになる。はじめは上によって反応し、終わりは義によって反応する。
正しい反応を身に付けるといっても、感情を克服したりコントロールしたりするという意味ではない。感情を抱くことは人間が人間たるゆえんだ。そうではなく、感情の修養につとめ、他社に対するよりふさわしい反応の仕方を習得するということだ。よりふさわしい反応の仕方が自分の一部になる。反応を磨けるようになれば、感情をむき出しにするのではなく、習得したふさわしい形で他者に応じられるようになる。反応を磨く手段は〈礼〉だ。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学 p47
人間が生きるということは、他者との感情的な反応のやり取りの連続である。
無数に繰り広げられる反応のやり取りの中に、決まったやり取りが何度も繰り返される。
すると、決まった感情的な反応を繰り返し、その反復はやがて自分の習癖となってパターン化してしまう。
しかし、それでは反応と感情に支配されている。そうではなく正しい反応をする必要があり、それは修練によって鍛えることができる。(変わることができる)
その修練こそ礼にある。
きみは森を歩いている。晴れあがった夏の午後だ。明るい日の光が緑鮮やかな葉の間からもれてくる。
遠くの方に、他の木よりはるかに高い立派なオークの大木が生えている。あまりに高いせいで、てっぺんがやっと見えるくらいだ。
数メートル離れて、大木の陰に小さな若木が育っている。たぶんきみは、大木の方が強く、硬く、威厳があり、若木はもろく、頼りないと思うだろう。
しかし、そこに暴風がやってきて、森の地面には大きな枝が散乱する。オークの大木は激しい風と雨と雷に持ちこたえられそうにない。
結局、オークの大木は地面に倒れこんでしまい、若木はそのまま無傷で残る。なぜだろう。若木は暴風の中で風にしなり、たわんだが、柔らかくしなやかなために、暴風がさったあともとどおり真っすぐになった。若木はまさしくその弱さのおかげで繁茂し優位に立つことができる。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学 p115
これは老子の章の第一に挙げられている話で、僕の大好きな話だ。「強くなるために弱くなる」
老子の教えは上善如水、つまり水のように生きる事が上善。
最高の善は水のようなものである。 万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善のたとえとした言葉。
このように”しなやかさ”や”やわらかさ”をもって生きる事が”善”であるという教えのように感じる。
人間はどうしても欲があり、執着があり、嫉妬がある。でも人生にそうしたしがらみを持ってしまうとどうしてもしなやかになれない。
例えば極端な例を出すと、今日のお昼は絶対にあそこのカレーが食べたい、と考えたとする。
この欲と執着があるおかげで、カレー屋さんで長蛇の列に並ばされイライラする。昼休憩も1時間しかないので急いで食べる。そうしてダッシュで職場に戻り、せかせかしながら仕事に入る。
ああ、昼休みに友達に電話したかったなと考え、歯を磨いていないことも気になり、それら一切のストレスを溜める。
振り返ってみると、このストレスは自分の欲と執着が生んだもの。
カレーが食べたいと思っても、今日はカレー屋さんが混んでるなと見れば、空いてる近くの蕎麦屋さんに入ってしまう。
そうすれば、長蛇の列に並んでイライラすることも無いし、休憩時間に急いでご飯をかきこむこともしなくてよい。蕎麦を食べ終えたあとに友達とも連絡でき、職場にはゆっくり戻れるし、葉も磨いて、心に余裕をもって仕事を再開できる。
こうして全てうまくいく流れを作ったのは、何より自分が欲と執着を持たなかったから。
欲や執着は固い芯のようにして自分の思考や行動の邪魔をするときがある。もっとゆるやかに、しなやかに考えて行動できれば、それが善であり、強さであり、楽な生き方になる。
人間は湿地で寝ると腰を病んで半身不随になるが、鰌でもそうだろうか。人間は木の上にいると震えあがって怖がるが、猿でもそうだろうか。
いったい、三者のだれが本当の居場所を知っているのだろうか。
人間は家畜を食べ、大鹿や鹿は草をはみ、ムカデは蛇をウマいと思い、フクロウやカラスはネズミを好む。
いったい、四者のだれが本当の味を知っているのだろうか。
猿は手長猿を雌とみなし、大鹿は鹿と交わり、鰌は魚と遊ぶ。麗姫などの美女は人からすれば美しいが、魚がそれを見れば水底に潜り、鳥がそれを見れば空高く飛び去り、鹿がそれを見れば駆け足で逃げ出す。
いったい、四者のだれが本当の美を知っているのだろうか。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学 p194-195
わたしたちが特定の視点から世界を見ていること自体は問題ではない。というのも、鰌や鳥や鹿にもそれ内の支店があるからだ。問題なのは、自分の視点が普遍的だと思い込み、心を閉ざしてしまうことだ。私たちは厳密な区別をもうけ、あまりに確固とした分類や価値観をつくってしまう。
しかし、明白としか思えない分類や、普遍的で揺るぎようがなさそうに見える価値観ならどうだろう。どんなときも殺人は悪いことなのではないだろうか。銀行強盗はどうだろう。
荘子なら、そもそもこのような状況になったのが厳格な区別のせいだと言うだろう。本当に〈道〉に従う修練を積んでいるなら、強盗にはならないはずだ。人を殺すこともない。
強盗ははじめから区別して物事を考える。「おれのもの、あいつらのもの、俺はこれが欲しい、あれを奪ってやろう」という考え方だ。
殺人を犯す者は、寿命を全うしないうちに生命を終わらせることで、〈物化〉の流れを分断している。
荘子にとって盗みや人殺し反対する論拠は、それが論理に反する行為だということではなく、それが厳格な区別をすることから生じていることだ。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学 p194-195
この考え方には、なるほどと思ったけど、理解するのが難しい。
この世に”絶対的”な善も悪もないっていうのが僕の考え方で、というよりも”絶対”的な価値基準というものがないと思っている。
この世の森羅万象は全て相対的にしか存在しえないから。
時として不義が正義になることもあるし、悪が善しとされることもある。それは時代と場所で変化するものだって思ってた。
だから、昔は戦争で人を殺しても良いという時代があって、企業のために身を粉にして働くことが美徳だという時代があって。
でも、やってはいけないことってあると思うし、無理はかならず破綻するとも思っている。
なら、その判断基準ってなんなんだろうって考えた時、自分なりに出した答えが「自分がされて嫌な事を人にしない」だった。
殺されるのが嫌なら人を殺さない。罵倒されるのが嫌なら人を罵倒しない。殴られるのが嫌なら人を殴らない。簡単だ。
絶対的な善悪は存在しないけど、人間として生まれ持った性向があり、良いことや悪いことは頭で学ぶよりも先に心や精神が理解している。
だから人から嫌なことを言われたら心が苦しくなるし、働きすぎたら倒れてしまう。元々人間が生またときから持ち合わせている感応性向、これが働く。
この感応性向がオートマティックで発動するので、自分がされて嫌なことは心でわかる。ならば他人にも同じことはしないということは頭で理解できる。
これを基準にすれば世の中もっと平和になるのかなって。そんな風に考えてた。
荘子の考え方は「全てを受け入れる」的な考え方なのかな。そうすれば物事を区別することがなくなり、区別しないように生きていれば過ちを起こさない。
その”区別”が難しいんだけども。
わたしたちは、交通渋滞につかまり、だれかにクラクションを鳴らされればカチンとくる。友人の不運について噂話をし、信じて打ち明けてくれた秘密をもらしてしまう。
人に批判的な事を言われて、何日も気に病む。その不安を鎮めるために、オンラインショップで買い物をしまくる。
もし、飼い慣らされていない最悪の部分がちょくちょく顔を出すのをいつも許しているとーどの瞬間でも「本物の」自分をそのまま受け入れているとーどうなるだろう。
荀子は次のように書いている。
人の本性は悪で会って、それを善にするのは人為によるものだ。今、人の本性には生まれつき利益を好む傾向がある。
また、生まれつき人をねたみに憎む傾向がある。そうだとすれば、人の本性に従い、感情のままに行動すると、かならず争い奪い合うことになり、社会の秩序が乱れ、ついには天下に混乱をきたす。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学 p203
「あるがまま」という言葉がある。自分は自分で他人は他人。
山は川として生きる事は出来ないし、川も山として生きる事はできない。
自分には自分に与えられた使命があり、それはひとそれぞれ違う。その使命を全うすることこそ本来の自分の生を全うすることになる。
だから、自分は他人になる必要はない。自分は自分なのだから、ありのままで生きればよい。といったような解釈ができると思う。
でも、性悪説を前提に考えている荀子にすれば、自然体で生きる「ありのまま」は少し危険だという。
確かに、人は必ずしも良い面ばかりをもって生きているわけでは無い。目の前に財布が落ちていたら、修養の足りない人間は盗んでしまうかもしれない。
誰かと口論になった時、まだ修養の足りない人間は相手を殴ってしまうかもしれない。
盗む、殴るというのも「ありのまま」の自分の反応だ。果たしてこれは世界にとって良い事なのか。
だから、孔子の言う〈礼〉が必要なのだろう。物事に対して「あるがまま」に自由勝手に反応するのではなく、正しい反応をするための鍛錬、それこそが〈礼〉。
孔子も、70歳になってようやく心のおもむくままにふるまっても道を外さなくなった。と言っている。
これは、〈礼〉を頭で考えて行わなくても、身体が勝手に正しい反応をするようになった。という境地に達したということだろう。
それにしても孔子をもってして70歳になってようやく〈礼〉を習得したと考えると、人間の性向を正しく鍛錬するのには相当な根気が必要なのだろう。
僕は性善説か性悪説かと聞かれてもうまく答えられない。結局人はどちらも持ち合わせているのではないかと思う。
生まれて来た環境によって、善が強かった子が悪に染まることもあるだろうし、悪が強かった子が何か大きな出来事をきっかけに善に変わることもある。
この世は二項対立だから、どちらか一方だけが存在することは不可能だし。
例えば悪い出来事が100%悪なのかというと、そこから大きな学びを得ることだってあるのだから、人生にっとプラスとなればそれは善にもりうるということは自分の人生ですでに経験している。
どちらが良い、悪いではないのだろう。
中道に沿ってバランスをもって〈道〉をあるいていけるか。それが正しい生き方なのかな。
僕が今回引用させてもらった箇所は本当数カ所で、学びになる箇所はもっと沢山ありました。
中国古典や東洋哲学に興味がある人は一度手にしてみてはと思います。
って話でした!
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