こんにちは!トモです。
僕は結構本を読むのが好きなのですが、自分の読書遍歴を思い返してみると、
まず中学生の時にホラーにはまった。笑
怖い話系の本を読むようになり、そこから高校生になって小説に手が伸び。
高校生の頃、習い事で電車移動することがめっちゃ多くて。
当時はスマホなんてないから、電車の中でやることって言ったら本当に読書くらいだった。なので、よく本を持ち歩いていましたね。
本を読み始めたきっかけは単純で、国語の成績がダントツで悪かったから。
学生の頃理系だった僕は、めっきり国語がダメでした。
「この時の太郎の気持ちを15字以内で答えなさい」なんて聞かれても、俺は太郎じゃないし、感情は15字以内で表せられる程簡単なものじゃないって思ってた。笑
それに、一番国語が苦手だった理由が「決まった答えがない」ってこと。
数学や物理、化学は完璧に答えが出る。それもたった1つの答えが。僕にとってはシンプルな理系の科目が好きだった。
ただ数学でも、文章問題になってくると、結局その文章が何を言いたいのか良く理解できなくて、数学の問題の読解に苦しんだ。それくらい国語がダメだった。
だから少しでも国語力をつけたくて本でも読んでみようって考えで本を読み始めた。
文章を読むことは特に苦痛でなく、単純に僕は感情移入ができないだけなんだってわかった。
国語のように答えを求められない読書は楽しくて、むしろ僕を本の魅力に憑りつかせた。
そうして、本を読むのが好きになって、大学生くらいからだんだん読む本が小説からビジネス書や実用書と呼ばれる本に変わっていった。
ビジネス書は人生に必要な答えや教えを沢山教えてくれる。
学校を卒業したら先生なんていなくなる。日本の教育は学校で先生に教えられたことをテストで答える教育。
だから教わってなかったら答えられない。そういう意味で本は人生の先生でもあった。
学校を卒業したら大抵の人は本など読まなくなる。先生のいない状態で世の中をやり過ごしていかなくてはならなくなる。
だから本という先生が味方に付いている限り、読書をする人の方がしない人よりも世の中をうまく渡っていける。僕はそんな風に考えていた。
しかし、最近この読書について少し見え方が変わってきた。読書は人生にとって百利あって一害無し。
ずっとそう信じてきた。もちろん本ほどコスパの良い物は無いと今でも思っている。
それでも、読書による弊害が起きる可能性があることにも最近気づいた。
それは一言でいうと「読んで満足してしまう」こと。僕は気づかない内にこれに陥っていたかもしれない。
知っていることと実際にやることは違う
この世はやるかやらないかの2つしかない。やる人間はやるし、やらない人間はいつまでたってもやらない。
どちらがいいとは一概に言えないが、やる人間が成功する人間だと思う。やる人間というのはどうすればよいか知識を持っていて、情熱があり、勇気がある人間。
やらない人間というのは知識や情熱、勇気が無くてやらない、やれない人間。
しかしこれは本や人から知識を得れば済む話。知識を得ればどうすればよいかわかる。どうすればよいかわかれば情熱が湧いてくる。情熱が湧いてきたら不安が小さくなる。
不安が小さくなれば勇気ある一歩を踏み出せる。一歩を踏み出せばもうあなたはやる人間だ。
しかしやっかいなのが「知っている」状態で満足をしてしまう人間。
本を読み、人間関係の問題や、お金の儲け方、営業の仕方、どうすればよい文章を書けるか、昔の偉人の金言、沢山知識を得る。
しかし、そこでこう考える人間が出てくる。「俺は賢い。こんなこともあんなことも知っている。」
こういった人間は物事を知り始めると、自分は世の中のなんでも知っている気になり、本気になればなんでもできると思い始める。
本気になればいいのだが、本気にはならない。読書をし続けて、新しい知識を得るほど自分が賢くなっていってると勘違いしてしまう。やればなんでもできると勘違いしてしまう。
一番大切なのは何を知っているかではなく、何がこの世にできるかだ。
知っていても使わなければ意味がないし、この世は何か行動を起こさないと何も動かない世界だ。
知っているだけでは足りない、実際にやらないと。
そういう意味で、読書という行為は人間を勘違いさせ、行動に至る前に満足させてしまう効果がある。
自分の頭で考えなくなる
読書をしてどんどん新しい情報を得ると、それだけで少し賢くなったと錯覚してしまいます。
次に、本を読めば読むほど賢くなれると大きな錯覚を起こします。
そうして、本を片っ端から読んでいく。空いた隙間時間も惜しまずに本を読む。
ただ、読むという行為は一見能動的な態度には見えますが、もし単純に文章を目で追うだけなら、それはTVを見ているのとほとんど変わらないと僕は思います。
読んで情報を得るだけでは本を読んだことにはなっても、活用してるとは言えません。
なぜならそこで得た情報など、よっぽど衝撃が走るほどの情報でない限り簡単に人は忘れてしまうからです。
だから、得た情報は自分のフィルターを通してよく咀嚼する必要があると思います。それが考えるという行為。
例えば「スウェーデンの現金使用率はGDPに対して2%しかない」という情報を入手したとする。
ただその情報だけを手に入れて、ある時誰かに話したとする。
相手からこんな質問が飛んでくる。「日本の現金使用率は?」「なぜスウェーデンはそれほどまでにキャッシュレス化が進んだのか?」「キャッシュレス化が生んだメリットデメリットは?」
あなたは答えられるでしょうか?答えられないとしたら本を読んで賢くなったと思っていたのは全て錯覚だったとそこで気づきます。
情報ばかり頭のノートに書き記しているだけではダメなのです。
活用しなければ意味がない。活用するためには自分の頭を使って情報を咀嚼して吸収して血肉とする必要がある。そのために考えることが必要なのです。
本を読むことばかりに集中している人はこの考えるという行為をないがしろにしがちです。
なにより、時間を読むことにばかり使って、考える時間が無くなってしまっているのだと思います。
今まで十分本を読んだ人は、一度本を置いて、自分の頭を使って考える時間を持つのも必要なのではないかと思います。
まとめ
読書をすれば新しい情報が沢山入ってくる。それだけで「賢くなっている」と勘違いしてはいけない。
読書は知識を発見することではなく、この世に行動を起こして活用することをいう。
時には本を置いて、自分の頭で考える時間を作ること。
って話でした!