物理のド素人が考える時間

人生論

こんにちは!トモです。

このブログは主に、人生の黄金時間に当たる大学生活を送られている方に向けて、自分自身が大学生の時に知っていたら嬉しかったな的な知識を発信しています。

3年半バックパッカーで世界を旅した経験と今まで3千冊以上の本を読んで学んだことをベースに記事を書いています。

少し前に次元とか時間についての記事を書きましたが。

きょ、今日も、、時間について書きたいと思います。。。笑

物理学にど素人の自分が、、しかもこのブログの趣旨は主に大学生の人たちに、これらかの人生で知っておくと少しお得かもって情報を発信するブログなのに、、。笑

まあ、時にはこんな自己満記事もお許しください。

では早速。

時間という概念は「人間」の頭が作り出している

ループ量子重力理論の提唱者ロヴェッリは、物理的な時間は存在しないとしながらも、人間が認識する時間については以下のように述べています。

人間の認識は、脳において行われ、それは常に記憶と連動している。そして記憶とは、中枢神経系におけるシナプスの結合と消滅という物理的なプロセスによって、過去に経験した事象についての知覚が貯蔵されたものである。脳がそれをベースに思考するというシステムをとっている以上、認識には、そもそも時間的な非対称性が必然的に伴っている。そしてそこに、時間が一方向に流れていると錯覚させる原因があるのではないか。時間とは、事象と事象を脳が勝手に、一連の連続的な流れで解釈しようとする錯覚から生まれているのではないかと言うのです。

出典:時間は逆戻りするのか 高水裕一

人は海馬や大脳皮質を使って、物事を記憶し、そこから引っ張り出してきた情報を利用して、現在に対処している。

この記憶と思い出しという作業が「記憶(過去に経験した事象=過去)→現在」という時間の矢を生み出しているのではないか。

また一方で人間には未来を予想するということができます。

どういうことかといえば「明日は雨が降りそうだ」と予想するから「洗濯物は家の中に干しておこう」という現在の行為を決定する。

他にも、たとえば山登りをしようとした時に「頂上では喉が乾くだろう」と予想することで「水筒を持参しよう」と考える。

かなり単純な例ばかりあげましたが、このようにして人は「現在→予想(未来に起こり得る事象=未来)」の時間の矢も作り上げているのではないでしょうか。

時間は物差し。お金と一緒のようなもの

ただし(ここからは僕の持論ですが)、そもそも時間とはお金と同じような一種の物差しなだけであって、実際に存在することはないんじゃないか、と思うんです。

つまり、お金が便利なのは、物の等価交換をしたい時に、お魚1kgに対してお肉何kgが等価なのかを瞬時に理解できるってところですよね。

それと同じように、動いている物AとBがあった時に、どちらが早く動いているのか、どちらが先に到着するのか、それを時間という物差しを使うことで一瞬で理解できる。

たとえばお金は貨幣という実態があるから「ある(実際に存在する)」とわかりやすいですが。

たとえば今後実物としての貨幣や紙幣がなくなって、全てデジタルになった時。

僕らは毎日の生活でお金は使っても、貨幣という物は使わなくなる。

そうした時に、お金ってなんだろう?お金って実際に「ある」のかな?なんて考えませんよね。

多分「ある」と答える。なぜなら実際に使ってるし、それで世の中が便利に動いているから。

時間も多分そんなようなものなのかもって思います。

この世の中を便利に図るために、作り出された物差し、それが時間。

時間は今という一瞬しかない

時間があるというのなら、過去や未来があって、そこを自由に行き来できる次元も存在するのか。

前回の記事で僕は「時間は未来から現在、そして過去に流れている」と書きました。

しかし今は「時間は未来から現在、そして過去から現在に流れている」という主張をします。笑

※後に書きますが、もし「時間」というものが存在するのであればです。

そして物事が起きているのは現在、今というこの一瞬の間だけ。

それを物理の数で置き換えるならプランク時間というこの世で最も短い時間の最小単位。

この一瞬が今であり、現在であり、物事はこのプランク時間の連続。

連続しているのならそこに流れがあるのだから、時間はどちらかに進んでいると言われるかもしれませんが。

これは表現の問題であって。

たとえば、現在というプランク時間の一瞬が「ある」。

そして次の瞬間、このプランク時間は消え去り、新しいプランク時間が生まれる。

このプランク時間の連続の中でこの世の森羅万象が移動(変化)している。

そして最も重要なのはこの連続するプランク時間は全て同一ということ。

つまり、もしプランク時間A、プランク時間B、プランク時間Cと認識してしまうと、AからCに時間が流れている(過去から未来)、

もしくはCからAに時間が流れている(未来から過去)と想像できてしまいますが。

僕が考えるのは「今」というプランク時間Tが連続で生まれては消えているだけ。

プランク時間T、プランク時間T、プランク時間Tという感じ。

過去は因果、未来は確率

そして僕の考える時間と空間の図はミンコフスキー時空がわかりやすいと思うので、引用して説明したいと思います。

これがミンコフスキー時空(空間)です。

ミンコフスキー時空の説明は長くなるので、気になった方はお調べください。

そして僕が考える時空の円錐がこちらです。

過去の光円錐=因果

過去の光円錐は言い換えると過去の因果円錐。

つまり、過去に経験した様々な事象が現在に対して何かしらの因果となって現れているという考えです。

たとえば、学校の試験でいい結果が出たという現在を経験するということは、過去に勉強をしたという原因があったからと考えられます。

今交通事故に遭ってしまったとしたら、それは過去にたまたま家を出る時間を5分遅れたのが原因かもしれないし、いつもと違う道を通ったことが原因かもしれない。もしくは音楽を聴いていて周囲の音に気が付かなかったのかもしれない。

過去の経験という原因が、現在の結果をもたらしたという、因果応報ってやつですね。

円錐がどんどん現在に向かって集約、収斂されているのは、時間の経過とともに、因果は限定的になっていくからです。

たとえば、5秒前の世界が原因となって現在の結果に影響を与えることってかなり限定されていると思います。

しかしその逆に1時間前、3ヶ月前、10年前と過去に遡ればのぼるほど、様々な因果が関係してきます。

僕は時間というものは便宜上存在するだけで、実際には存在しないのかもしれないと最近は考えるようになってきていますが、

仮に便宜上の我々が使っている時間があると定義すると、その流れは過去から現在に因果を伴って流れていると考えられるのではないかと思います。

未来の光円錐=確率

未来の光円錐は言い換えると未来の確率円錐。

量子力学の世界では、量子は波であり、粒である。

量子の世界では0か1かという世界の他に0と1という世界が同時に成り立っているそうです。

人が観測をしない限り、二つの世界が重なり合っている。

人が観測した瞬間に、この世は決まる。(不確定性原理)

量子は非常にミクロな世界であり、マクロの私たちの世界ではそんなこと信じられませんが。

このマクロとミクロの境界線がどこにあるのか、まだ解明できていません。

何が言いたいかというと、未来(があるとすると)は確率で存在しているということです。

そして自分達の現在における観測や行動が未来を確定していく。

未来の確率円錐が逆三角形をしているのは、過去の因果と逆で、

現在(今という一瞬)が数秒先の未来を確定できる範囲はそれほど多くないですよね。

たとえば超極端な例でいくと、今自分が牛乳を飲んだという行為が、アメリカの大統領選に影響を与える、なんてことはあり得ない。

しかし、実はその牛乳が腐っていて、10秒経過した先の時間(未来)で吐いてしまうという未来の確率を確定することはある。

そしてその先の未来では数時間後学校を休む未来になっているかもしれないし、数日間病院に入院している未来が待っているかもしれない。

現在という一瞬の行為が未来に行けばいくほど、多くの事象をうむ確率を含んでいる。

そうして、確定された未来が現在に事象として現れる。

つまり、時間の流れがあるとするなら、未来から現在に向かって流れていると見てとれる。

現在は過去であり未来でもある

で、ここでちょっと不思議な感覚になります。

過去の因果は現在に影響を及ぼすが未来には及ぼさないのか。(僕は及ぼさないと考えます)

しかし牛乳を飲んだという現在の行いが腹を壊すという未来に影響を与えている(事象の確率を確定してる)。

これは因果ではないのか。

でも少し立ち止まって考えると、腹を壊した現在の状況は、過去に牛乳を飲んだという原因が招いている、とも捉えられます。

※というかもっと良い例えはないんかと、、笑

また、牛乳を飲んだ段階で腹を壊す未来は確定したかもしれないが、腹を壊す未来は10秒後に(現在に)やってくる。

そうやって考えていくと、つまり事象が起きるのは現在というこの一瞬(プランク時間)のみであり、

起きた事象は過去の因果と未来の確率が同時に発現している。

この現在という一瞬は、過去の因果(過去→現在という時間の流れ)と未来の確率(未来から現在という時間の流れ)の合流地点、発現時点ということではないのかと。

つまり、やはり実際の時間(の流れ)という存在はなく、因果と確率が存在するだけで、それらが現在という一瞬一瞬で発現を繰り返しているだけ。

言うなれば、時間とは一瞬の連続であり、過去も未来も現在も同時に存在しているようなもの。

だというのが最近の僕の時間に関する物理的な考えです。

時間には物理学における時間以外にも、心理学における時間や生物学、哲学における時間といった、様々な違った概念を持っているものなので、一概に時間とはこうだとも言えないと思いますが。

今日述べたものはあくまで自分の自己流勝手なアプローチになります。

僕は人生において時間は最も貴重で大切なリソースと考えているので、時間に関しては様々な記事を書いています。

それが「時間は存在しないよ」なんていうと、じゃあ一体これまでの時間を取り扱った記事はなんなんだ!となってしまいそうですが。

あくまでそれらの「時間」というのは先に述べた人々が生活する上で便宜上使っている物差しとしての時間。

これからもこの不可思議な存在時間については様々記事を書くと思います。

♢♢♢

P.S. 最後に1つだけ。

この世には光速度不変の法則があります。光は時速30万kmで進むという絶対的な法則。

これはどういうことかというと、光のことだけを考えると、1秒=30万km。

つまり1秒は30万kmですと言っている。時間=長さになってる。

これっておかしいですよね。言い換えるなら、20kgは7kmですと言ってるようなもの。

でも、これは光においてだけは絶対的に1秒が30万kmだから成立すること。

逆にいうと、時間というのは光の長さとも言える。(長さは1次元の事象と考えるとこれも面白い)

光というのは、量子であり、量子は粒であり並である。つまり時間も量子の性質を持っている?

そう考えると、量子は観測しない限り不確定という曖昧な性質を持っていることを考えると、

時間もまたそうした不確定な曖昧な性質を含むとも考えられますね。

だから時間はこういうものです、と言いづらいんだと思いますが。

って話でした!

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