標準化された世界と個性をどうフィットさせるか

幸福

こんにちは!トモです。

このブログは主に、人生の黄金時間に当たる大学生活を送られている方に向けて、自分自身が大学生の時に知っていたら嬉しかったな的な知識を発信しています。

3年半バックパッカーで世界を旅した経験と今まで3千冊以上の本を読んで学んだことをベースに記事を書いています。

最近Dark Horseという本を読んで、個性や標準化、個人と社会の幸福などについて考える様になったので、今日はそのまとめを記事にしたいと思います。

今日の記事はこんなことに悩んでいる人に読んでもらいたいと思っています
  • どういう人生を送るべきなのか
  • どういう人生が幸福をもたらすのか
  • 自分の好きなことを仕事にしていいのか

時間がない人のために先に結論だけ書いちゃいます!

今日の記事のまとめはこちら。

  • 社会は管理しやすいように標準化を進めてきた
  • 学校や会社での標準化教育によって個性はダメなもの扱いされてきた
  • 個性とは自分の好きや得意、興味あることや能力のあること
  • 個性と世界がフィットすれば、それが最大の幸福になる
  • 個性とはとても多様で動的なものである

主観的な幸福と客観的な幸福

僕のブログで何度も出てくるワード「幸福」。どんだけ幸せ求めてんねんと思われそうですが。笑

でも、ヘルマンヘッセが「人生の義務は幸福になること」と言ってたのに僕は妙に共感を覚え、人生の意義とか目的は誰にもわかりませんが、幸福の追求は生存欲求や自由獲得欲求に並んで大切な欲求の一つだと僕も考えています。

でも、幸福について考えた時に、何が難しいかって、人によってバラバラということですよね。

これがあれば幸福になりますよとか、こうしたら幸福になりますよって一律の答えがないこと。これは幸福だけでなく、成功の定義や生きがいの定義にも当てはまることだと思います。

1億円あれば幸せと感じる人もいれば、1億円じゃまだ足りないと感じる人もいる。結婚が幸せな人もいれば結婚が不幸と考える人もいる。子供がいる幸せ、子供がいない幸せ。長時間労働を不幸と感じる人、長時間労働に至福を感じる人。

人の数だけ答えがあり、人の数だけ多様性に満ちている。それが幸福や成功の定義なのだと思います。

ただ、ある研究によると、人は他人の幸福や成功を図るとき、地位や富、名声があるかどうかをその指標の一つにするそうです。逆に自分の幸福や成功を図るときは、充足感や達成感を指標にするそう。

つまり人は、自分のことと他人のことを見るときに、使う物差しも変えてしまう。笑

それ自体は別にいいと思います。だって他人がどれだけ充足感を感じてるか、達成感を感じてるかなんて自分にはわからないこと。ならば、客観的に観測しやすい指標(どれだけお金を持ってるか、会社のポジションなど)を使って図るしかないのはわからないでもない。

でも、地位や富、名声=幸福ではないということは認識しておかないと、出発点から誤ってしまうことになるので注意が必要。お金を持っていること、いいポジションについていること、人々から慕われていることが、必ずしもその人の幸福につながるとは限りません

また、他人と何かを比較競争することほど人生の浪費と幸福の遠回りになってしまうので、比較したり競争したりすることはやめて、純粋に自分の充足感や達成感のみに集中するのが良いと思います。

他人との比較や競争をやめて、自分の純粋な幸福や成功(目標達成)に焦点を当てて生きることができれば、案外簡単に幸福な人生、成功の人生が手に入れられるのかもしれません

標準化する社会

自分自身に焦点を当てれば簡単に幸福や成功が手に入る。一見簡単そうに見えてほとんどの人がそうできていないのはなぜなのか。ほとんどの人が他人との比較や競争をして生きているのはなぜなのか。

それは社会が推し進めた標準化による弊害なのではないかと僕は考えます。

標準化とは、いろんな業界によって使われ方がさまざまですが。ここでは「多くの差異あるものを、一般的にすること、大衆的にすること、規格化すること」のように考えていただければと思います。

たとえばネジを作る工場があったとして、2センチのネジを作らないといけないのに、1センチや3センチのネジが混じって作られたら困りますよね。そういうことが起きないように規定の2センチのネジしか造られない様にする。(すごく当たり前のことを話してます笑)

たとえば学校で、小学1年生は足し算引き算を、小学3年生で掛け算、4年生で割り算を習うことで、一般的に小学校を卒業したら四則演算ができて、体積や面積が求められて・・・と言ったように「一般的な、標準的な学力を装備した小学生」が中学校に進学する。

こうした差異あるさまざまな人や物をある程度一般的(大衆的、標準的)に同一なものにすることを標準化と呼ぶ(ことにします)。

そしてこの標準化という作業は産業革命以降爆発的に世界に浸透していきました。なぜなら、標準化は人や物を管理するのに圧倒的に便利だから。

個性を消す社会

学校や会社、さまざまな場所で標準化という効率化、容易に管理できる仕組みが浸透したことによって同時に失われたものがある。それが個性

元々、人間というのは非常に多様的な生き物ですよね。その人と違った部分が「個性」として目に見える形で現れる。だから一口に「個性」と言ってもそれも様々な形を持っている。

しかし、そうした個性としての差異、標準からかけ離れた異質さというのは、社会にとって管理しづらいもの。悪として捉えられてきた。排除すべきものと。だからそうした個性は標準化された教育で失うようにできている。

標準化という作業がどれほど怖いものか、一旦この例を想像してみてほしい。

ベルトコンベヤーがあり、そこには様々な形のものが流れてくる。この様々な形一つ一つが個性であるとします。

そして、コンベヤーの真ん中には学校や会社、工場や社会といった人や物を標準化する装置が存在する。

その中に入った人や物は標準化された(統一された規格として)状態で出てくる。

頭で考えるよりも、この図で見た方が標準化の恐ろしさがなんだか百倍伝わる。。笑

一度標準化された人や物は大体「同じ様なもの」に仕上がっているので、管理する方は管理しやすい。特に物は非常にいうことを聞きやすいので、ほぼというより標準化された全く同じ物を大量に作ることが可能になり、こうして産業革命を経て大量生産と大量消費・廃棄社会が生まれた。

僕個人的な意見としては家内制手工業から工場製機械工業に移ったことによって、経済は圧倒的に飛躍した一方で、世界が規格化されて、どこを見渡しても「同じような」社会になってしまった。産業革命前の人々が物を作っていた時代、同じコップでも形が歪で一つ一つ違っていて、同じ物はこの世に2つとなかった世界。そうした歪な世界、民藝のみで造られた世界を僕たちはもう目にすることはほとんどなくなってしまったと考えると、少し寂しい気もしますね。

人間の個性はもう少し複雑

物の標準化は非常に簡単。でも、それが人になると少し話は変わってくる。人には心があり、意思があります。性格や個性は本当に様々。そうすると、どうしても画一的に均一的に標準化させようとしても完璧な標準化はできない。

図で表すとこんな感じ?

どう頑張って標準化させようとしても、みんな似せることはできても、完璧に一緒にはできない。個性を完全に打ち消すことはできない。

教育や社会によって標準化され、個性を打ち消され続けた青春をどれだけ送っても、最後にほんの少しだけ残る個性。この小さく残った個性に引っ掛かりを感じて、人々は悩んだり考えたりするのだと思います。

何を悩んだり考えたりするのか。それは、自分がやりたいことや就職先、夢や人生の生き方、そういったものです。

完全に標準化されていたら悩むことはありません。特に日本の伝統的な人生設計は、小学校から大学まで勉強を頑張ってできるだけ良い学校に行く。そして22歳で大学を卒業したらできるだけ良い企業に就職する。そして40年〜45年勤め上げたら定年退職して、あとは死ぬまでが良生ですよ。って感じですよね。これが日本人の標準化されたライフプラン

良い企業に勤めて高い給料をもらえることが幸せであり、そうして家族を養えることが幸せであり、良い企業の良いポジションにつけることが成功である。こうした標準化された幸福や成功を知らない間に植え付けられている。

だから少しでもこうした標準化された道、レールを外れようとすると、大丈夫かと心配される。時には非常に強く止められることもあるでしょう。そして自分自身でも標準化された道を外れることを恐れるようになる。なぜなら幸せや成功とは標準化された道の先にあり、その道を外れた先にはないと考えるようになっているから。

でも先にも書いたように、どれだけ標準化教育を受けても完璧に個性を消すことはできない。心のどこかで好きなことがしたい、得意なことがしたい、興味あることがしたい、やる気の出ることがしたい、そういう小さな意志が消えずに残っている。それが個性。

本当の幸せは個性と世界がフィットした時にやってくる

完全に心が標準化されていれば、標準化された幸福や成功は簡単に手に入れることができる。なぜなら標準化された自分の幸福と、標準化された世界の幸福の形が一緒だから。

でも、あなたには個性が残っている。その個性が邪魔をして、どうしても標準化された幸福や成功と形がフィットしない。そのフィットしなさ加減に違和感を人は感じるのだと思う。

本当はそうした標準化を全て忘れ去って、本来の自分の個性をそのまま表現してみる。

読書が好きなら好きなだけ読書をしてみる。釣りが好きなら釣りをする。海外に興味があるなら行ってみる。絵や音楽が得意だと感じるならやってみる。

好きなこと、得意なこと、興味があること、情熱があること。それらはすべてその人の個性なのだと思う。

そして、その個性を表現して、自分の知的好奇心が満たされる、目標が達成される、誰かに感謝される、喜ばれる、評価される。この瞬間、自分の個性と世界が完全にフィットした瞬間に人は最大の幸福を感じるのではないか、というのが僕の最近の考えです。

自分の個性(能力)を最大限に活かして、誰かの役に立って、フィードバックが返ってくる。そこに大きな自分自身の存在意義を見出すことができる。ここに標準化では得られなかったさらに大きな幸福や成功が眠っているのではないだろうか。

つまり、世界が巨大なジグゾーパズルであって、自分はその中の1ピース。自分が本来あるべき場所にピタッとハマった瞬間、それが最大の自己実現であり、幸福であり、成功である。最大限の充足感や達成感を得られる瞬間なのだと、思います。

個性とはとても多様的なもの

よし、自分の本来の個性を精一杯引き出して生きることで、最大限の幸福や成功を得られるのか。そうわかれば、今日から始めよう。

そう考えて実際に今日から始められる人はどれだけいるでしょうか。

多分非常に少ないと思います。めちゃ偉そうに書いてますが、僕も同じだと思う。なぜなら、僕たちはあまりにも標準化された社会に慣れ親しみすぎてしまっているから、、。

自分の個性は山登りをすることだ!と考えて、いきなり明日辞表を提出してエベレストに向かう。そんなことができる人は世界に一人か二人くらいでしょう。笑

なぜ僕たちは個性に従って生きた方がいいとわかっていながらそうできないのか。

理由の1つは生存欲求を脅かすリスクを恐れるからでしょう。好きなことをしてもし食っていけなかったら。僕たちは好きなことをするよりも食って生きることのほうが優先順位が高いので、食っていける保証がない道に飛び込む勇気がない。

しかし次に挙げるもう1つの理由の方が実は深刻だと僕は思います。それは多くの人が自分自身の個性を理解していないということ。

いやいや、好きなことはいっぱいあるよ。多分自分はこれが得意だと思う。これなら情熱がある。そう考える人はたくさんいると思います。ただ、本当にそれがあなたの個性なのかということは一度真剣に時間をとって考え抜いてみたほうがいいかもしれません。

なぜなら僕たちは知らず知らずの間に、標準化された幸福や成功を追い求めるように標準化され続けてきたからです

そうでなければ(特に日本で)これだけ多くの人が学業に専念して、いい高校、いい大学に行こうと頑張って、いい企業に就職しようと頑張って、婚活では年収600万以上じゃないと無理って条件出して、ってこんな画一的な世界は起き得ないと思っています。

みんながみんな同じ人生を歩もうとする。同じ理想を追い求めようとする。それっておかしいというか、少し不自然だと、僕は感じます。なぜみんなが同じようなゴールを目指そうとするのか、それが標準化の弊害なのかもしれません。

なので、一度立ち止まって、本当に自分自身の心の底からの声を聞いてみる。

自分の好きなこと、得意なこと、興味のあること、やりたいこと、情熱のあること、そうした個性はなんなのか。子供の頃、まだ標準化に染まる前の自分自身の自然と行っていた行為や考えを思い出してみる。そこに自分本来の個性が見えてくるはずです。

そして、最初はプライベートな時間を利用して少しづつ、自分の個性を表現する時間を作ってみる。

ここで「お金になるか」と考え出してしまうとまた標準化に引き戻されそうなので、一旦お金のことは忘れてみるのがいいと思います。

純粋に個性を表現することだけに集中してみる。それだけでも、もしかしたら大きな幸せを感じたり、達成感を味わえたりするかもしれません。

人生の唯一の義務は幸福になること。幸福になるためには標準化された幸福を手に入れようとするのではなく、自分本来の個性を表現することで得られる真の幸福を手に入れること。

そうして、全ての人が個性輝いて生きてる社会の方がなんだかエネルギッシュな世界のように感じませんか?

って話でした!

 

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