こんにちは!トモです。
このブログは主に、人生の黄金時間に当たる大学生活を送られている方に向けて、自分自身が大学生の時に知っていたら嬉しかったな的な知識を発信しています。
3年半バックパッカーで世界を旅した経験と今まで3千冊以上の本を読んで学んだことをベースに記事を書いています。
今日のテーマは「時間」について。
最近特に大学生やZ世代と呼ばれる人々の時間との付き合い方に関して顕著に現れている現象が「飛ばす」行為。
動画は1.5倍速どころではなく、10秒スキップを繰り返しながら動画を見る人が増えているそうです。
※ちなみに僕も倍速とスキップ多用しますが、、笑
これは何を表しているのか。僕は人々の時間の流れが加速しているのだと考えています。
1秒は1秒でそれ以下でも以上でもない。何言ってるのと思われそうですが。笑
今日は科学者でも物理学者でもない僕がこの壮大なテーマについて主観的意見を書こうと思います。
時間は人類によって生み出された概念
まず初めに「時間」そのものについて考えたいですが、そもそも人間は時間というものを持っていなかった(はずです)。
狩猟採集の時は、ただお腹が空いたら獲物を求めて、狩をして、食って、寝るだけ。それが人生だった。
そこに農耕という文化が入ってきたことで、人間は定住を始めた。
農耕をする上で欠かせないのが天候を知ること。冬に作物は育ちません。
初めの人間はそんなこと知らないでしょう。なので、多分好き勝手に種を撒いて育てようとしたんじゃないでしょうか?
そうしているうちに、長い時間をかけて、うまく穀物が育つタイミングとそうでないタイミングがあることに気が付き。
なんだか温かい時期がよく、寒い時期はダメだということに気が付き。
なんだかその温かい気候と寒い気候が繰り返してやってくるということに気が付き。
ではそのサイクルを理解しておけば、効率よく農耕ができるということに気が付き。
そのサイクルを理解するために、星を観測して、季節を把握して、ってやってきた。
そうして、地球が太陽の周りを回る1年というサイクルを把握し、それを地球の大きさで分割することでついに1秒という時間の単位を発明した。
時間は人間が地球上で生活する上で便利な物差しの一つとして人間が発明したものだといえる。
これが人間と時間の付き合いの出発点。
時間は伸び縮みする
物理学が好きな人だと知っていると思いますが。
ニュートンは時間や空間を絶対的なものとして捉えていたのに対して、アインシュタインはそれらが相対的なものだと定義し直したことは有名です。
今はなんだかそっちの方が正しいというのが現代物理学の常識になっていますよね。
つまり、時間は伸び縮みするのが定説なのです。
どういうことかというと、例えば熱いお風呂に我慢して入る場合、1分が1時間のようにも感じる。
その一方で大好きな人と過ごす1時間は1分のように感じる。
時間が絶対的なものであったら、1分は1分であり、1時間は1時間であり、体感も変わらないはず。
なのに、なぜか時間単位と体感にはずれが生じることがある。これが相対性。
時間は1秒とか1分という便宜上の単位が与えられているが、それは長さを測る定規のように絶対的なものではなく、時と場合によって伸びたり縮んだりする不思議な性質を持った単位。
よく子供の頃の1年と大人になった1年とで同じ1年のはずなのに全然すぎるスピードが違うように感じるのも、時間が伸びたり縮んだりしている証拠だと思います。
人間は技術進化で時間を獲得してきた
人間の歴史を考えると、もともと人間は生きるために必死であり、生きることに時間を消費し続けてきた。
狩をすること、家を建てること、移住すること、闘うこと、家事をすること、子育てすること、毎日毎時間何かの作業をして、時には何もしないことをして、時間を消費して生きてきた。
しかし、人間はどんどん新しいものを発明して、世の中を便利にしていきました。
その結果、よく例えに出す家事の例でいくと、洗濯機、掃除機、炊飯器、水道、電気、ガス、こうした発明と技術革新がそれらを処理する時間を圧倒的に少なくしてくれました。
昔は1時間かけて行っていた洋服の洗濯がボタンをピと押す1秒で完了するようになった。
つまり、洗濯機を使用することで、59分59秒節約でき、人間はそれだけ自由な時間を獲得してきたということだ。
技術進歩はこうしてどんどん人間に自由な時間を与えてくれた。
消費もまた同様に増えた
技術進歩すればするほど人間が時間を獲得してきたのなら、今頃時間リッチになっていておかしくないはずなのに。
口を開くと「それをする時間がない」「忙しい」という人間。社会人はおろか、大学生、小学生でさえ「時間がない」と感じる世の中になってしまっているのはなぜなのか。
人間は技術進歩によって時間を獲得し続けてきた一方で、大量のコンテンツを生み出すことで時間を消費し続けてもきた。
つまり、活版印刷の後、たくさんの情報を取得できるようになり、それが本となり、ラジオとなり、テレビとなり、インターネットとなって、メディアは姿形を変えながら人々の心に入り込んできた。
そうして人々から注目を集めることで時間を奪ってきた。
人々は不安に対する感情の方が安心に対する感情よりも強い。
だから平和であることよりも悲惨であることに強い感情を抱き、より多くの注目をするようにできている。
だからメディアは人々が注目するだろう悲惨なニュースを数多く取り上げて発信してきた。
以前はマスメディアという媒体を通して行われていたこれらの行為が、現在はSNSとスマホを利用して、個人でできるようになった。
web2.0と呼ばれる70億人総クリエイター時代の世の中となり、70億人から無限に生成される情報やコンテンツがこの地球上に溢れるようになった。
しかし人間の1日の時間は24時間というのは太鼓の昔も今も変わらない。
その中で寝て、食べて、働いて(勉強して)、雑事をこなせば残る時間など数時間であり。
その数時間をそれぞれのコンテンツに振り分けることをしなければならなくなった。
当然、一つ一つのコンテンツに振り分けられる時間は短くなる。
こうして、時間をありとあらゆるコンテンツに消費させられていっているのが人間の歴史なのだと思う。
時間の加速
技術進歩によって使える時間が増え、溢れるコンテンツによって時間の消費が増えた。
これによって生み出された時間と消費される時間が相殺されることは理解できた。
そしてこれが理解できれば、時間が加速していることもよくわかる。
一つのコンテンツに振り分けられる時間は限られている
上で、限られた時間を多くのコンテンツに振り分けないといけないと書いた。
つまり常に時間に追われている状態になっている。
1つのコンテンツに時間をたくさん使用することは、他のコンテンツに使うべき時間がなくなるということ。
しかもコンテンツは次から次へと雨のように降ってくる。
そうなるとできることは一つ。コンテンツをなるべく早く消費して時間をゲインするということ。
同じ時間でも生産性は倍以上
また時間の加速を別の側面で考えると。
例えば、昔は1時間かけていた洗濯が1秒でできるようになったと書いた。
ここで洗濯の生産性を考えたとき、両者が同じアウトプット(洗濯の枚数が同じ)だとすると、
アウトプット/1時間 対 アウトプット/1秒とではどちらが生産性が高いといえるか。
当然後者である。
そして生産性が高いということは処理速度が速いということ。
これは機械の処理速度ではなく、時間の(処理)速度が加速したということだ。
同じ量の洗濯をこなすのに、結局昔は1時間かかったものが今では1秒で処理される。
つまり人々にとって、1秒の重みが非常に重たくなっているといえる。
この重みこそが時間のスピードであり、スピードが加速しているといえると僕は考えます。
貨幣は逆ですよね。経済は常にインフレーションしているから。
昔の一円の方が今の一円よりずっと重かった(価値があった)。
こうして、時間自体もスピードを増し、その時間を利用する人間もまた少ない時間で多くのものを処理しようと時間負荷を加速させる。
これによって、人間の中で時間はどんどん加速されていっている。
情報もSNSもどんどん“ショート“に向かっている
この時間の加速が顕著に表れているのが、特に若者が消費するSNS。
昔はFacebookなど比較的長い文章が消費されていたのに対して、次に短い文章が主流のツイートが現れた。
その次は文字ではなく写真がメインのインスタグラムに移行し、今はショート動画のtiktokとなっている。
どんどん短時間に多量の情報を処理できるSNSに人々の注目が移行しているのは、可処分時間の短さと時間の加速に関係している至極当然の流れだと僕は認識しています。
果たして、これがいいことなのだろうか。
知力は時間を要するもの
短時間に多くのことを処理できるようになれば、時間を有効に使えているように思いますが。
しかし現在大学生の知力に大きな変化が現れているようで、ある研究によると、
数十年前の学生と今の学生を比べると圧倒的に一度に集中できる時間が短くなり、また長い文章などを処理する能力が低下しているのだそうです。
それは、情報を短時間に処理することに脳が順応していった結果なのでしょう。
問題はのは、学問を体系的に学ぶためには、一度にある程度の時間を使って、相当量の情報を処理する能力が求められるということ。
時には長い時間を使って思慮、思索する時間を要することもある。
そう考えた時、この情報過多社会の中で人間が身につけた能力と時間の加速は、果たして人類にとって良い方向に進んでいるのだろうかと考えてしまうこともあります。
って話でした!