書評-達人のサイエンス

書評

こんにちは!本好きのトモローです。

 

今日ご紹介するのは「達人のサイエンス」

物事のプロ・達人になるのに必要なこと、彼らはいかにしてプロ・達人になるのか。

 

達人のサイエンス

 

残念ながら、通常の学校や大学の教室は学習に適した場とは言えない。

生徒が20名、30名と机につき、一人の先生が前に座る蚊建つかして教えるいわゆる「対面授業」は、本来マスプロ教育で大量の学生をうまくさばいていくための方法であり、管理する側の都合によるものだ。ここ一、二世の間に、アメリカの国民生活のあらゆる状況(産業、輸送手段、コミュニケーション、計算手段、娯楽など)が驚くほど変わったにもかかわらず、学校の方は基本的には何一つ変わっていないと言うのは実に残念である。

こうした授業ではほとんどの生徒は受動的になっていて、一人の先生が各生徒の能力、文化的背景、学習方法を考慮せずに同じスピードで同じ内容を教えている。

以前私は、こうした問題の改善策(コンピューターなどの指導手段を使った生徒自身によるペース配分や、個別教育を実施するなど)について詳細に論じたことがある。遅くとも10年から15年以内に、こうした線に沿った学校改革は避けられなくなると私は見ている。

達人に関する話からは少しずれているが、僕が気になったポイント

学校教育に関して、確かに教える側の都合で今まで行われてきているのは確かだ。

人が情報を得る際に使う器官は3つあり、目か耳か身体か。そして人はこのどれかに突出するらしい。

目が優れている人は物を覚える時、視覚的に覚えるし、話を聞く際も視覚に訴える表現が一番理解しやすい。

耳が優れている人は物を覚える時、聴覚的に覚えるし、話を聞く際も聴覚に訴える表現が一番理解しやすい。

1つのクラスに40人も集めたら、タイプは皆人によってバラバラだ。彼ら一人ひとりにとって一番効率の良い教え方も違う。

学習のスピードも理解度も得意科目もバラバラな生徒達を1つのカリキュラムで同時に教えるというのは効率的に見えて、最終的には非効率なのではないだろうか。

発展途上の間はまだ今のような教育で広く全体的に一般教養が広まればよいかもしれないが、成熟した国家であれば教育の仕方も変えていかなければいけないように思う。

 

昔の武道には次のような言い伝えがある。

「達人とは誰よりも、毎日五分でも長く畳の上にいる者だ。」

どんな競技の場合でも、達人はたいてい練習の達人である。

世界のトップアスリートがそうだ。

プロ野球のイチロー選手は子供の頃から毎日かかさず素振りやバッティングをし続けていた話は有名です。

これはある本で読んだ話ですが、マイケルジャクソンがあるコンサートのためにホテルに宿泊していた。

従業員がコンサート会場に移動するためにマイケルジャクソンを呼びに行った。

彼が部屋を出た後、彼の部屋を覗くと床にはおびただしい量の汗が溜まっていたらしい。

ある程度まで上り詰めた時、満足する人間とまだ足りないと感じ練習を繰り返す人間。

結果にシビアで、現状に満足せずに突き詰められる人間、それが達人なのだろう。

 

メンタルゲームのパワーは、七〇年代にアメリカ。スポーツ界の著名人たちが明らかにしたことで一般大衆に知られるようになった。その一人、プロゴルファーのジャック・ニクラウスは、ボールが完璧な飛跡を描いて目的地に達する(つまりまっ白ゴルフボールが空高く舞い上がり、見事グリーンに着地する)様子が明確にイメージできてから、はじめてショットを放ったという。

ニクラウスによると、成功したショットの半分はイメージの力、四割がセットアップによるもので、スイングは残りの一割でしかないという。

また第一線で活躍するプロの陸上選手たちは、競技の前夜に何度も翌日の協議についてイメージするという。そして翌日フィールドでいい結果が出るかどうかは、そのイメージがどれくらい船名に描けたかに大きく関係するらしい。

このイメージの力は僕自身の経験からも理解している。

僕も高校生の頃中国武術を習っていて、大会は表演(演武)の得点で競われる。その表演の中で当時一番難しいとされていた技があった。

これを決めるか決めないかで表演の得点は大きく変わる。フィギュアスケートでいうところの四回転ジャンプのようなものだと思ってほしい。

僕は大会前日までこの技を練習で一度も成功させたことが無かった。そもそもできるとも思っていなかった。

しかし、大会で恥をかきたくなかったので、前日の夜、僕は寝る前に自然と翌日の表演のイメトレを始めていた。

イメトレの中でもうまく技が決まらない。何度も何度もそれこそ何千回とイメージの中で技の練習をした。

すると、1回だけ完璧なイメージで技が決まった。僕はそこでやめずに、何度やっても完璧に技が決まるのを確認するのに、また何千回と練習した。

そうして、完璧にモノにしたところで眠りについた。

そして、大会本番、見事にその技が決まった。僕はびっくりして一瞬頭が真っ白になったのを覚えている。

実体験からも、このイメージの力がとてつもない力を秘めていることはよくわかる。

 

自己の潜在エネルギーが使えるようになる前に、それを使っていったい何をするのかをはっきりさせておく必要がある。そしてどういう選択をするにせよ、あなたはある途方もない事実に直面するどろう――― 一定の方向を目指すには、それ以外のすべてを諦めねばならないという事実に。

一つの目標を選ぶとは、多くの選択可能な他の目標を諦めることである。私の友達の一人はこう私に言った。「われわれの世代は、自分の選択の幅は広げたままにしておくべきだと言う考えで育ってきました。だけど自分の選択の幅を本当に広げたままにしていたら、結局何もできないですね。」

無限の自由が与えられているがためにかえって何一つ選択する気がなくなり、結局テレビの前に座り、刺激の強い画面を長時間眺め、だんだん生気のないうつろな気分になっていく。

決断がないために行動もしなくなり、活力が低下して憂鬱や絶望的な気分に襲われる。

結局、自由とは制限を受け入れることでやって来るのだ。全部は実行できないが、一つだけなら実行できる。そしてもう一つ、また一つと行動することができるのだ。

今の日本に生きるということは、大抵のことならなんでも選べる自由な世界に僕達は生きていると思う。

職業だって選べる、学ぶか働くかも選べる、むしろ何もしないことも選べる、どこかの国を旅行することも、どの製品を使うかも、なんでも選べる本当に自由だと思う。

ただ、自由が一概に素晴らしいかというと、そうでもない気がする。自由だから、選択肢が膨大にありすぎて逆に選べない人間もいる。

どの製品を使うべきか悩んで貴重な時間を無駄にしたり、どの業種に就職するべきか悩んでうまいこと就活がいかなかったり。

選択肢がある、選べることは素晴らしい、ただ過ぎたるは及ばざるがごとし、ありすぎることが逆に弊害を生んでいる。

自分のエネルギーや時間を一つの事に集中できれば、それが爆発的な成果を生むのに、その一つのことを選べずにいる。そんな時代でもある。

人間は放っておけばいくらでも怠惰になれる動物だ。何に手を付けてよいかわからず、行動できないと、その場しのぎの享楽・快楽に走る。

そうして、時間とエネルギーを無駄に使っているうちに精神も病んでしまう。

そうなる前に誤った選択でもいいからとりあえず、何かを決めて行動をすること。やりながら軌道修正すればよいのだと思う。

 

まとめ


達人になるためには誰よりも努力し、時間をかけて練習すること。

イメージの力はとてつもない力を秘めている。

時間とエネルギーを無駄にせず、目的地を決めて目標に向かって突き進む。